2007年09月03日

平出遺跡の勉強

平出遺跡.JPG

今から平出遺跡の勉強をします。
案内板を写真で撮ってきましたので・・・

平出遺跡案内板.JPG
これでお分かりかな・・・


平出遺跡内部.JPG
住居内部の写真です。
果たして如何に想像しますか。

2.平出遺跡と大場磐雄のかかわり
 長野県のほぼ中央に位置する松本平の南端、塩尻市宗賀(そうが)地域には、旧中仙道が塩尻宿を出て西に向かい、洗馬宿に入る少し手前で江戸から数えて55番目の一里塚<写真1>がある。この付近一帯に平出遺跡が存在する。
 平出遺跡の発見そのものは戦前に遡るが、戦後まもなくの昭和22(1947)年に、畑中から緑釉水瓶が発見された事が契機となって広く知られるところとなった。当時、信濃地域の調査を実施していた大場磐雄はこの緑釉水瓶を実見し、従来は近畿地方以外の地域において出土事例が確認されていなかったこの遺物が出土した平出遺跡に関心を寄せ、地域の期待も高まった事から昭和25(1950)年の4月から長野県文化財専門委員の一志茂樹(いし しげき)、宗賀小学校教諭の原嘉藤(はら かとう)らとともに5次にわたる発掘調査を実施し、古墳時代後期から平安時代初期にかけての住居跡49軒、縄文時代中期の住居跡17軒を検出した。なお、平出遺跡は昭和27(1952)年に史跡指定を受けている。

 平出遺跡調査で特筆されるのは、考古学以外の専門家(地学・古生物学・建築学・社会学・民俗学・歴史学)が参加した戦後初の古代農耕集落の本格的調査でという点あり、古代社会における多角的な畑作経営の存在を実証するなどの成果を挙げた。また考古学そのものの研究においても、大量の灰釉陶器が各時期にわたって出土した事から、当地域における編年研究の端緒を開くきっかけとなった事も平出遺跡の意義として注目される。

 平出遺跡の調査が古代農村社会の研究として多方面から評価されたのは、多分野にわたる詳細な分析や、個々の遺構・遺物の重要性もさることながら、遺跡を取り巻く周辺環境と一体となった景観の復原を試みた点である。

 平出の集落は西方を流れる奈良井川の扇状地上に営まれ、北方には桔梗ヶ原と呼ばれる平坦地が開け、南側の背後には木曾山地の北端に当たる山々が遺跡全域を包むようにして巡り、遺跡のすぐ背後には、小丘ではあるが山容の美しい「比叡の山」が横たわっている。この「比叡の山」の東麓には「平出の泉」が集落内に流れ、泉の下流では水田の潅漑用水として現在でも重要な役割を果たしている。「比叡の山」の南北には山地が迫っているが、麓には大きな洞(凹地)地形が形成されており、ここには3基の古墳(平出第1~3号墳)が築かれている。遺跡からは、後の調査を含めて現在までに179軒の住居跡が発見されており、このうち132軒が古墳時代~奈良・平安時代に帰属する。

 大場は発掘調査の前年に、原嘉藤より緑釉水瓶<写真2>の存在を聞かされており、「従来、この地方に類を見ない逸品なのでこれを出土した遺跡への深い執着となり、私をして遂に本遺跡の本格的調査を思い立しめるに至った」とその衝撃的な出会いを語ったという(小林1986)。大場は平出遺跡調査委員会の委員長として請招され、第1~5次調査、4年間でのべ44日間の発掘調査の実務と関連した各分野の調査を統率し、その前後10余年間にわたって平出遺跡に訪れて指導をした。


今日、黒田良夫先生と久しぶりに昼食を・・・
色々の話の中で 昨日云った平出遺跡の話をした所、何でも土器に塗料が施してある物が出土したとか
早々にホームページで調べる事に
しかし、写真が見つからない。
もっと検索すれば出てくるはず・・・
ホームページからの抜粋であるが、緑釉水瓶とは何か。珍しいと・・・
次回に訪れた時に、勉強します。


あった。
http://www.city.shiojiri.nagano.jp/kbn/410031/410031.html

凄い。コンピューターの凄さ・・・

投稿者 : 22:04 | コメント (0) | トラックバック (0)

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