2006年11月30日
黒田良夫先生NO15
加えて科学技術の発展がある。産学連携という言葉も生まれた。科学は本来人間などの自然の一方の本質的心理を探求する、哲学を併せ持った神秘的な学問であったが、科学もまた商業主義万能に加担した。自由資本主義は商業主義となりそして消費文化を招いた。生活の中で大切なことは、物や人間との付き合い方を学ぶということであるはずだ。もっとはっきり言えば物を大事にするということだ。そのことが情操を生み知恵を育み、道徳を生み人間と人間関係を作ってきた。これを文化と言ってよい。消費経済の中に使い捨てというい言葉すら生まれた。これも戦後高度経済成長の中からのもので、これを政治の中で内需という。内需拡大、経済活性化とは物を買えということであり、今持っている物を捨てよということである。物を大切に使い、付き合っていたならば経済は根底から崩れる。物を捨てるということは、生活の形をかえることであり、そこで生活様式が培ってきた固有の文化を苦もなく崩し去ったのである。物のみでなく人間までも利用すべき対象とし、商品としてしまう時代である。人間を人材と言う。材とは材料資材のことである。しかし人間は材料ではないし資材とは成り得ないものだ。「人つくり」という言葉もあるが、人は大根や自転車のように作るものでない。その消費経済の結果として廃棄物はいたる所にあふれ、環境を汚染し破壊していった。ここでも科学は元凶に近い形で加担を繰り返している。全ては連鎖しているのである。回転し続けており、これを止めたら社会も生活も成り立たなくなるだろうが、生産、消費、廃棄を続けなければ社会も生活も成り立たなくなることには気付かない。便利と物欲から生ずるこの環境破壊、環境汚染の加害者と被害者が同じであるからだ。環境を守る運動というものを見ていると、加害者が己を被害者の立場に立たせてやっているものであり、加害者意識を捨てた人々が始めて問題とし得る。ここでは自然環境保護をも都合良く使ってきたのである。環境浄化もあるいは資源としての再利用も、商業主義の中での利益をもたらすという考えの中でしか解決はつけられない。
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